2011-02-21

CCD PLATFORM 003 抜粋

CCD PLATFORM 003 

・駒場寮解体のとき、僕と同じ美術評論で活躍している東京大学の先生方が、どちらの側に立ったかというと、その解体を促進する側に立ったんです。僕はその時かなり疑問に思ったんです。やっぱりそこで何か関わるべきじゃないか、それに抗うべきじゃないかということを思ったんです。その時、長谷井宏紀君が、ビデオを回し初めて、それで《w/o》という作品にしたんですね。それは凄く意味のある活動に僕には見えたんです。(杉田)

・寿町のアート・イヴェントに参加をして行ったパフォーマンスっていうのが、そこに居た娼婦の人達が、今、あそこから居なくなって、どこに行ったかという話、または、その主催者の関係企業を、いろいろ、あらいざらしにしました。そこには当然、主催者の人達はいろいろ居たので、かなりのブーイングと拍手が入り乱れるという状況で、後、立ち入り禁止になるっていう(笑)。

なにか違和感を持った時にまず僕は、何かしらのルートを通して関わっていく、参加をしていく、という事をする、まあ性格ですかね、何て言っていいかわからないけど。作家として、そういう所にあえて足を踏み込む、飛んで行く、みたいな、性格を持っています。(藤井)

・僕らは全ての情報をもちろん知ってるえわけでは無いので、ナイキの靴を履きながら、ナイキのやっているようなことに反発した作品をつくっていたりするかもしれない。例えば、僕も一昨年参加した越後妻有の「大地の芸術祭」とか手伝った人が居ると思うし、もしこの後、とんでもないスキャンダルが出て来て、とても汚い企業が絡んでいたとしたら、いったい僕らはどうしたらいいんだろうとか、そういうことも、起こりうるんですよね。とても、動きづらい。(杉田)

・僕は資本主義の社会の中で、生きている部分もあり、いろんな意味で自分が、抵抗している部分と実生活で僕が享受してる部分っていうのは矛盾が生じてしまっている。だからそれを頭で考えると動けない。しかし、見る前に飛んでしまう動きっていうのは出て来るものがあるんだけども。これはたぶん、僕は美術と関わる問題だと思ってるんですけど、僕はそれを「感性の論理」と呼んでいるんですね。つまり今まで僕が生きて来た中で様々な価値判断をしてきたわけですね。生きるってたぶんそういうなんですけども。その中で「間違ってる」って、直感的に感じるものが、やっぱりある(藤井)

・飛び乗ったとき、関わったときに、それは、「それ自体がアーティストの本当のクリエイティビティを表したものになっているのか」あるいは、「その問題を解決するためにアーティストは自分のやりたい本当のこととちょっと変えてるんじゃないか」という問題がでてくる。政治的な問題だと分かりにくいんだけど、地域社会と関わるっていう風にするとそれは分かりやすくて、アーティストは本当はもっと違うことやりたいはずなのに、地域におもねってしまうというような(杉田)

・地域系アートプロジェクトっていうのは、目的地がわかりやすい列車のようなもの。列車の行き着く先がもう見えているとなると、僕がそれに乗ったならば、いかに運転手をジャックし、ブレーキをかけていくかっていうことにしかないと思う。そこに乗ってただ外を眺めて目的地まで到着みたいなのは、有り得ないなと。問題が政治になると、ややこしいですね。まず、列車では無いと思っていて、みんなそれぞれ歩いている徒歩の集団だと僕は思っているんですね。いわゆる宮下公園みたいな。つまりデモ。デモには、集合地点と到着地点、解散地点はほとんど意味をなさない。要なのは、その間にいかに人々にアピールしていくかってことなんです(藤井)

・僕は他人のことだと思って、アトリエワンのことを考えてるわけではなくて、自分も立ち得るというか、東大駒場寮のときの先生たちみたいに知らず知らずのうちに自分も立ち得る。複雑な思いがあるんですよね。ポリティカル・コレクトネスと言えるような社会の問題を扱うときに、下手をすると、問題を渡り歩く、みたいな形の表現になりかねないんですよね。そういった行為が問題や事件や悲惨な出来事のそれこそ資本主義的な消費じゃないかって恐れがある。(杉田)
・自分個人が何かを表現するっていうとき、論文を書くときに、インターネットに接続して何かを調べたりしますね。そこである文章をコピペをして引用したり、そういった形で他の人がつくったものを自分の中に取り入れるっていう行為が非常に視覚化されてきた時代だと思っていて。つまり自分自身がつくりだす創造物というのが如何に様々な他者が組み合わさっていて、そして自分の表現っていうものが色んな人の表現の積み重ねなのかということが非常に分かりやすい時代になってきたと思うんです。その中から出される一つの極論の答えというのは<所有は悪である><所有は盗みである>という発想なんですね。自分がつくった、表現したものを自分が所有するということ、というのが盗みであるという定義を僕はしているんですね。(藤井)

・アートって何なんですか?(荒木)

・アトリエワン展示会場の映像を作品だと言いにくいのは、あの映像をYouTubeにUPするっていう行為も重要なんですね。行為そのもの、UPしてしまうという行為それ自体もアクション。あの作品は独立して美術館で展示をするとかっていうのではない。撮影を行なったその夜に徹夜で編集して翌日UPするっていうことが大事であったり、それを含めて、僕は色んな意味でアートって言っていいかなって。それでなにがアートだろうって訊かれたときに、まあ色々ですよね。(藤井)

・ある町の町興しのために招かれたアーティストが、そこの人びとと、何かを考えながらやるってなった時に、素直に全部を思考できないというか、そのプロセス大切だよね、地域の人と話そうか、それについて地域の人の思い出の品を集めて、それで協力して古民家で展示して、それで一つあがり、みたいな感じのは、何かどうも違うと思う。(杉田)

・市民とか地域とか言った時に、実はそんなに自分とそんなに遠い存在ではないというか。市民というか一般に生きていたら、牙も持っているんですよ、みんな。みんな牙を持っているし、自分の子どもを殺したい親、しかし愛している、みたいなね。みんな複雑に必死に生きているという部分があって、それが一般の人間だと思っているんだけれども。その部分を、すごい平にして、「女」・「子ども」っていうイメージを誰かが上から下ろしてつくっていくんですね。ユートピックなイメージを。そこにやられちゃうと、そのプログラムに合った優しい感じのものになって、あぁ楽しかったね、で終わるみたいな。(藤井)

・地域振興系に牛耳っている人たちが考えているステレオタイプのイメージを再生産するばかりでなくて、アーティスト自身も新たな一つのステレオタイプの自分自身なりかねないようなことに感じちゃうんですね。そういった時には、牙なんかは本当にあちこちにあるわけで、それこそを見せるのが、実はひょっとしたらアートの重要な役割かもしれないんだけれども、それがどんどんなくなっていく。政治的な問題に対して、普段みんなノンポリで実は知らないわけだから、こんなに知りませんみたいなもの、示した方がひょっとすると良いのかな。(杉田)

・僕は普通の生活者と思っているんですね。生活しているなかで、何かをつくっていくというベースであって、さらにこれまでやってきた自分の活動の積み重ね、それを個人的な美術視野を入れているんですけれども、そのなかで、いわゆる自分の感性の論理というものをあてて生きている。それが、例えばどこかもっと違う場所環境に置かれた時に、変わるかと言ったら変わんないんですね。と、僕は思っているんですよ。(藤井)

・連結したり共同しなりすることによって、表現の場というのも実は僕ら自身でつくっていけるんですね。しかし、つくっていくっていうそれ自体が奪い取られている状況で、だからいろんな地域系アートだとか、既に在る表現の場に自分が入ろうとするんです。つまり、どこでもいいんですよ。路上でもどこでも僕らは表現の場をつくれるんだけども何か既に与えられた表現の場に入ろうとするから、その入ろうとするアーキテクチャに自分をアダプテートしていこうっていうふうになってしまう。むしろ自分たちで、ここが重要なんですよ。「自分たち」。複数形です。自分たちで表現の場をつくっていくっていうことが、今、僕は皆さんに期待すること。今自分が表現したいっていうこと、その場がないっていうことからなんか新しいチームが生まれたり、ムーヴメントになったり、っていうか、美術史っていうのは実はその運動の連続なんですよね。(藤井)

・これだけいる美大生が誰かの作品を必ず一個買うっていうことをやってったらマーケットだって変わるわけで。既存のシステムが悪くて、そうじゃないものを一からつくれってっていうのもあるし、既存のシステムでさえつくれるっていうふうに僕は思っている。ただ、その時に大きく違うと思うのは、やっぱりまだ女子美で講義なんかをしていて思うのは、「私はつくる側の人間だから」「私は表現する側の人間だから」っていうがあって、表現の場は狭いんだけど、その場所を用意してくださいとか、私の場所があったら入れてくださいっていうふうになっちゃうんですよね。(杉田)

・私の出身がすごい田舎の方で既にその地域がすごい、外からのものが入り込む隙がないような感じで、そこにアートを持ち込むっていう事自体がなんというか難しい。(佐々木)

・ただセブンイレブンの前の駐車場であってもそこに僕はなんかこのおっちゃん達のカラオケにも含まれる、そこでも見出せるような、アートとかかわれるような、もしくはアートが既にそこにはあると僕は信じていて実はアートっていうのは、どこにでも入っていけるんだな、と僕は思っているんですね。はい。しかし、アートがなんだか行政と一緒に手を組んでみんなでやってくると暴力になっていくと。アートの暴力っていうのも考えていかなきゃなと思います。(藤井)

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